自刃の地跡
自刃の地 jijin no chi
 清水宗治の自刃跡は、南側駐車場の道を隔てた反対側に並ぶ三つのお寺の一番奥にあります。
 宗治は自刃することが決まると、城内にはまともな小船がなかったのか、秀吉陣に小船を用意して欲しいと願い出ています。家臣達には城内をくまなく掃除させ、後の事や城明け渡しの事を指示し、自らも篭城で伸びたヒゲを抜かせていたと伝えられています。どうしてヒゲを抜くのかと聞いた者には、秀吉に笑われては恥じだと言ったそうです。また、宗治と共に自刃を願い出た家臣には、主君(毛利)の為にたった1人の武士でも残らなければならないと諭しています。
 そして6月4日朝、秀吉の用意した小船に兄の月清入道、末近信賀(毛利より加勢)、弟の難波伝兵衛、家来の白井与左衛門、高市之允、介錯人の国府市正と乗り込みました。秀吉から頂戴した酒を酌み交し、誓願寺(舞)を舞った後 「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」時世の句を詠んで切腹、月清入道らも次々と切腹し、宗治の首は秀吉の家臣である堀尾茂助に渡され、秀吉の陣へ届けられました。