備 中 七 城 「 庭 瀬 城 」
井上有景、秀吉の攻撃に屈せず
左/庭瀬城 右/撫川城
 
庭瀬・撫川城のデータ
城の形態 沼城 (永禄二(1559)年に備中成羽城主三村元親(備中兵乱で自刃)が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城) 撫川城と庭瀬城は戦国時代は1つの城で、江戸時代に2つに別れたといわれる。撫川城は石垣に野面積みがみられ、周囲は水路に囲まれている。
城主 井上豊後守有景
毛利側
織田側
当時の様子 備中攻めの時、井上氏は800人ほどの家臣と共に立てこもりました。庭瀬城は廻りが沼地で高松城と似ており、容易に攻められる城ではありませんでした。秀吉の攻撃にも屈せず、毛利方の退去の命令に反して戦い、和睦の時まで在城したということです。
城兵 800人
場所 岡山市庭瀬
現在の状況 庭瀬城跡には清山神社が建っています。水路が良く残っており、石垣が当時の姿を残していましたが、最近の道路拡張工事で一部消えてしまいました。
撫川城跡は、庭瀬城から住宅地をはさんで150m程西にあります。周囲が宅地化されているにもかかわらず、水堀が残り、ここだけは時間がとまった様にも見えます。西には足守川もあり、水利を利用した城であったことわかります。決して整備されているとは言えませんが、逆にそれが昔をしのばせている様にも思えます。
備考 撫川城跡と庭瀬城跡の案内板
地図 とてもわかりにくいので、道を尋ねながら行ってください。
車道がとても狭いところがあります。注意してください。行き止まりも多いです。