備 中 七 城 「 冠 山 城 」
冠山城本丸の案内板
冠山合戦を偲ぶ
 天正十年四月十七日冠山城は、織田軍二万、宇喜多勢一万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。
守りは城主林三郎左衛門、称屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木與五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、称屋興七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、称屋 一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多田忠家らと戦った。
 城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵は大きく、一時攻めあぐんだ。四月二十五日不幸にして城内より出火し、火は燃え広がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木與五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵一三九人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた。
加藤清正一番乗りの巧妙話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。
 小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は行年五十一才、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いをも断わり、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。
武士道に徹した冠山の城主及び城兵を心から称えたい。

昭和五十八年十一月吉日

冠山城四百年記念事業奉賛会
案内板には、「不幸にして城内から出火...」とあり、伊賀忍者が火を付けさせた説と食い違いがあります。どちらが正しいかはわかりません。