鴨庄城のデータ |
城の形態 |
平城 別名:加茂城 |
城主 |
生石(おいし)中務→秀吉の甘言にのり織田方に寝返る |
毛利側 |
同藤四郎、上山兵庫介元忠 毛利家臣:桂広繁 |
織田側 |
宇喜多家臣:戸川平右衛門(生石を寝返えさせる) |
当時の様子 |
本丸に城主上山兵庫、東の丸に加勢である生石中務、西の丸には毛利の加勢桂広繁が守っていました。秀吉は、宇喜多の家臣戸川を使って生石を寝返らせ、東の丸に宇喜多勢を引き入れ、桂広繁に秀吉側への降伏を進めました。しかし、桂は「生石が裏切る事は知っていた、二の丸を攻めとって秀吉への土産にするとよい」と言い、西の丸に火の矢を打ち鉄砲を撃ちかけました。西の丸は燃え、宇喜多勢が秀吉陣へ逃げ返るところを桂の家臣が追いかけて、計57人を討ち取りました
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城兵 |
- |
場所 |
岡山市加茂 |
現在の状況 |
民家の向こうに見える鴨庄城跡です。現在は2の丸の一部がかろうじて残されています。場所がわからず、地元のおばあちゃんに聞くと「城?ああ、昔の城ならあの向こうの木の横じゃけえ」と教えてくれました。田んぼの中であぜ道を歩いてやっとたどり着きました。 |
備考 |
二の丸にある「案内板」
岡山市指定史跡「加茂城二の丸跡」 旧備中郡域にあって、足守川沿いに開けた沖積平野の真ん中に築かれた平城である。築城時期は、定かではないが、古くは、地侍の岡本隼人が城主であったと伝えられる。戦国時代末期になって、中国地方西部を支配していた毛利勢は、西進する織田方軍勢に備え、東前線となる備中南東郡の南北国境沿いに、7城を構えていた。この城や、北方2キロメートルの高松城もその1つである。
天正10年(1582)の秀吉の備中攻略に際し、この城には毛利方の桂広繁・上山元右・生石浩家が立て篭もったが、秀吉方の攻撃にあって城中でも内紛が続き、ついに落城したと伝えられる。まもなく清水宗治が守る主城高松城は孤立し、水攻めに■される事となった。 |
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地図 |
高松城から南へ4キロの田園の中にひっそりと鴨庄城はあります。県道180号線を高松城から岡山方面へ向かい、「清音・山手・吉備路」方向に曲がる信号の手前(北より)の信号を入ります。進む事約500m、右手(北)の田んぼの脇に写真のような場所があります。車では近づけないので農道の脇に邪魔にならないように止めて歩きましょう。尚、駐車するスペースはありませんので、迷惑にならぬよう注意してください。
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