ゆ か り の 地 「 鞆 の 浦 」 tomonoura
鞆対潮楼(福禅寺)
 鞆(とも)の浦は、毛利を頼って逃げてきた足利義昭が滞在されたところで、当時「鞆幕府」とも呼ばれました。鞆の浦は瀬戸内の穏やかな港町ですが、瀬戸内海の潮の流れが変わる場所で、潮待ちの船が入る重要な港でもありました。
 この街には、戦国ゆかりのものが多くあります。道路の真中にある山中鹿助の首塚(写真右)、山中鹿助といえば山陰の尼子の血を引く武将で、毛利に滅ぼされた尼子家を再興すべく信長の力を得るなどして、毛利に戦をしかけておりましたが、上月城(兵庫県)の戦いで捕らわれの身となり、備中松山城にいた輝元の元へ護送中、小早川隆景(諸説あり)の命によって殺害されたのです。鹿助の首は首実検の為に鞆の浦の義昭の所に送られたことで、ここに首塚ができることとなりました。鹿助が松山城へ護送中の話で、備中高松の近くを通りかかったとき、宗治がもてなしたという話が残っています。鹿助は当時、忠義な男としてヒーローであり、輝元も会いたがっていたそうで、危険を感じた隆景が先手を打ったといわれています。
 また、毛利と秀吉の交渉役であった恵瓊(えけい)の備後安国寺があります。当時のものはあまり残っていないようですが、150円で拝観できますのでぜひに。
 長い階段を登ったところにあるのが、沼名前(ぬなくま)神社です。ここには、秀吉が九州の名護屋城に持っていったという、組み立てる能舞台があります。現在は組みあがった状態で建っていますが、鞆城跡にある「福山市鞆の浦歴史民俗資料館」(入館料150円)に組み立て方の詳しい説明があったと思います。
 足利義昭が鞆に入ってからは鞆の警護が必要となりましたが、中島元行がその任務についていました。高松の戦の前に、足利義昭に清水宗治と中島元行が拝見したといわれています。
能舞台 沼名前神社
足利義昭は毛利を頼ってくるのですが、郡山城ではなくて鞆の浦の鞆城へ義昭を迎えています。このあたりに毛利の足利との微妙な距離が感じられます。高松の戦の後、毛利と秀吉は和議を結び、よって足利幕府はここ鞆の浦で終焉を迎えることとなりました。義昭は後に秀吉に一万石を与えられて大坂に戻っています。
アクセスマップ
鞆の浦への地図
鞆の浦へのアクセスはよくはありませんが、それでも行きたいのが鞆の浦です。今まで大きな開発もなく、あの風情ある港町が残ったのは奇跡に近い。個人的にですが、中国地方一の町並みだと私は思っていますし、最近観光客が多すぎる気がして、できれば街中には車で入ってほしくない、京都みたいにならんといて!と思う今日この頃です。