ゆ か り の 地 「 上 月 城 」 kouzuki-jo |
上月城跡 | |
播州上月城は、兵庫県の北西部佐用町(旧上月町)にあります。尼子再興を目指す山中鹿助と尼子勝久が尼子再興のため戦った事で有名ですが、元々は城主は赤松政範でした。 1576年、山中鹿助は城主赤松守る上月城を攻めましたが敗退。翌年秀吉が出陣し隣の福原城を落城、上月城も秀吉の総攻撃をうけ、赤松は城に火をつけ自刃しました。秀吉は上月城を山中鹿助に任せましたが、鹿助が京都に尼子勝久を迎えに留守中、宇喜多家臣に乗っ取られ、この後何度も鹿助と宇喜多等の間で取合いになったと伝えられています。 1578年毛利軍6万が上月に出陣、鹿助から連絡を受けた秀吉は支援の援軍を送りますが、この時三木城を攻めており、着いた時には上月城は毛利の大群に囲まれ、手の出しようが無い状態となっていました。 清水宗治は尾崎谷合で、城に通ずる穴道を掘らせていました。その最中、高松城から息子の源三郎が誘拐されたと連絡が・・・(源三郎の誘拐)。隆景らの助言で、宗治は高松城に戻り息子をとりもどし、すぐ上月にとって返し、穴道をほらせ、水の手を封じたので、上月城はますます窮地に立ったとされています。 秀吉は窮地に立つ上月城の尼子勢を救うべく、一端姫路に戻り京都に信長を訪ね救援をもとめたが、信長は「今は三木城攻めの方が重要であり上月を見捨てよ」と結論をだし、引き上げるしかなかった。 毛利は秀吉が陣取る高倉山の気配から、織田勢の引き上げを察知し総攻撃をかけた。予想していなかった秀吉は各所で毛利勢に攻められ、一時は総崩れの危険さえあったという。秀吉は姫路に引き上げ上月は孤立、尼子勝久は自刃し、鹿助は捕らえられた。毛利輝元が入城していた備中松山城へ送られる途中、隆景・元春の命令にて高梁川のほとりで殺害された。 「毛利の大砲」 上月城の戦いで、毛利が始めて「大砲」を使ったと竹元春一著「上月城史」にあります。鹿助は、夜な夜な飛んでくるこの大砲の不気味さに肝をつぶし、家臣に奪い取るよう命じたところ、重すぎて持ち帰る事が出来ず、毛利に見つかってやもなく谷に突き落とした。毛利は次の日、また大砲を引き上げて使用したそうです。 |
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アクセス | |
上月城跡 中国自動車道佐用インターから南へ、山際までは車で行けます。本丸までは山道ですが、比較的楽に登れます。特に遺構はありません。 |
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