そ の 後 の 清 水 家 - 戦国時代
はじめに 信長を打った明智光秀を倒し、秀吉の天下統一が現実味を帯び、毛利家は隆景が中心となって、秀吉と本格的な和睦を目指します。秀吉の配下となると、四国攻め、九州への出陣となり、清水家も隆景の家臣として働きます。四国、九州へ、望まぬまま秀秋の家臣をおしつけられた時代もありました。
目次
川辺への引越しと「ダザー様」
秀吉からの申し出 「宗治の子を大名に・・・」
宗治の子、景治 小早川隆景の家臣時代 文禄の役
景治、小早川秀秋の家臣時代
関ヶ原の戦い頃の清水家
川辺への引越しと「ダザー様」
 秀吉と毛利との間で和睦が成立し、城明渡しが決まると、清水家や家臣達は城を出なければなりません。宗治の妻子や残った家臣達は、家財道具を持って、高梁川の西「川辺」という所へ移住しました。三原城に人質として出されていた宗治の子、源三郎が輝元公よりお暇をもらい、ここをあてがわれてのことでした。輝元公から源三郎へくだされた書状には父宗治を「古今希に見るすばらしい武将だった」と書かれていました。
写真 現在の川辺地区
 大勢の家臣が家財道具をもって移動した為に、川辺付近は大騒ぎ、地元有力者の蔵に入れたとか・・・。
 その名残りからか、川辺には「駄財=ダザー様」という鎮守様が残っています。

写真 ダザー様
秀吉からの申し出 「宗治の子を大名に・・・」
 その後、秀吉が隆景と会った折、秀吉から「清水宗治には子(源三郎)がおったな、1、2万石を与えて大名にしよう」という申し出がありました。隆景は帰りしな川辺に立ち寄り、その旨伝えましたが、源三郎は「父の節目もあり、ご厚意は大変ありがたいのですが、このまま毛利家に奉公させていただきたい。」とこれを断ったといわれています。
 後に秀吉に拝見する機会があった折、宗治はすばらしい武将であったと言われたそうです。隆景も秀吉に会うとこの話(備中高松の戦)が出たと後々語っていたそうです。
宗治の子、景治 小早川隆景の家臣時代 文禄の役
 元服し、源三郎は隆景と宗治の名前から1文字をもらい「景治(かげはる)」と名を変えました。
 天正13年、隆景は秀吉の四国攻めに参加、伊予方面を攻めました。長曽我部は降参、隆景は伊予領(愛媛県)を秀吉から与えられます。この時、隆景は秀吉から貰う事を断り、毛利家を通してもらうよう秀吉に頼んでいます。景治は喜多郡内に300貫の地をあてがわれましたが、1年9ヶ月で再び筑前に移動となります。
 天正14年には九州平定の為に隆景は九州へ出陣。翌年、九州を平定した秀吉は、伊予にかわり筑前・筑後を隆景に与えました。
写真 佐賀県唐津市 肥前名護屋城近く 小早川隆景陣跡
 隆景が筑前・筑後にいる間に朝鮮への出兵が決定し、秀吉が肥前に名護屋城を築城、隆景も各地の大名と同じように名護屋に陣を構えるなど、かなり多忙な時期だったと思われます。景治は文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵「文禄の役」に参加、隆景軍は碧蹄館で明軍を破り、功績が認められ景治は輝元より書状を賜りました。
景治、小早川秀秋の家臣時代 
 子のなかった秀吉は秀秋(当時は秀俊)を養子にしましたが、側室淀の方にお世継ぎが生まれると、秀秋を輝元の養子にしようとした為、隆景は毛利家を守る為に我が養子としました。隆景は秀秋をとても丁重にもてなし、早々に小早川家の家督を譲ります。その時、家臣として残されたのが、清水、草刈、能島村上の外様大名でした。景治は断りましたが、隆景はそれを許さず、筑紫野や、大宰府、小郡付近の一部2600石を知行としてあてがい残したのです。
 大阪から福岡の名島城へ秀秋と家臣を案内した景治と中島元行でしたが、道中、中島元行は秀秋の家臣から無礼な振る舞いを受け、備中へ帰ってしまったが為に後に大騒ぎにもなりました。
 秀秋は二度目の朝鮮出兵「慶長の役」で大手柄を上げるものの、実の子かわいい秀吉が秀秋の活躍をよしとせず、筑前筑後の領地を取り上げてしまいます。清水家はこの前後で備中へ帰ったものと推測されています。すでにこの時隆景は三原で没していました。
(写真 名島城からの移城門 崇福寺 )
関ヶ原の戦いの頃の清水家
 慶長3年(1598)秀吉が没すると、天下は二分されます。石田三成文献派と徳川家康武闘派は対立、そして1600年関ヶ原で天下分け目の戦がおこるのです。景治の元にも三成から是非参戦してほしいという書状が届きましたが、景治はこの時も毛利家に仕えたいと誘いを断り参陣しませんでした。宗治の長男であった宗之は高松を去った後、右田毛利に遣え、関ヶ原の戦に関係する安膿津城攻めで亡くなったといわれています。39歳でした。
 関ヶ原の後、4国を2国に減らされた毛利でしたが、清水家は現在の山口県光市に2500石の知行地、萩には屋敷をかまえ、毛利一門家老職に継ぐ寄組士として迎えられたのでした。その頃毛利は激しいリストラを行っており、ひじょうに清水家が優遇されたことがわかります。