備 中 七 城 「 備 中 高 松 城 」
清水宗治、46歳、備中高松の地に名を残す
写真 上/本丸 下左/資料館 下中/首塚 下右/蓮池のハス
 
 備中高松城のデータ
城の形態 沼城
城主 清水宗治(水攻めに敗れ、城兵の命を救う為に
         1582年6月4日湖面に小舟を浮かべ自刃)
毛利側 城内 三千
毛利本隊 4万 (毛利輝元、吉川元春、小早川隆景...)
織田側 織田本隊 3万 (秀吉2万、宇喜多1万)
当時の様子 天正10年4月、秀吉率いる信長軍3万は高松城をとり囲んだ。宇喜多勢が幾度となく攻めこむが敗退するなどし、そのうち毛利本隊が高松に近づいてきた。苦慮しているところで、黒田官兵衛は秀吉に「水攻め」を提案する。全長3キロ、高さ7.2メートル、底辺幅24メートルの大工事は、12日間で完成、足守川の水を引き入れた高松の地は数日で水につかり、高松城は湖の孤城となった。これには援軍の毛利勢も手が出せず、秀吉と毛利の和議が進む事となる。城主清水宗治は、6月4日城兵と毛利を救うため湖面に小船を浮かべ自刃する。その直後、毛利は6月2日に明智光秀によって織田信長が自害した事を知るが、追撃せず兵を引いた。秀吉は明智光秀を討つべく、2万の兵を3日で姫路に帰還、これを「中国大返し」という。
城兵 3000〜5,000人
場所 岡山市高松
現在の状況 備中高松城の本丸は本丸跡として保存されています。本丸の南側は公園となっており、蔵を改造した資料館が建っています。ここには、昭和におこった足守川の氾濫による高松地区の洪水の写真があります。(郷土史研究家林先生撮影) 
二の丸や三の丸は民地となっており、最近は宅地開発が進んでいます。しかし、周囲には畑や田んぼがあり、穏やかな田園風景を残しています。
備考 7月〜8月には、蓮池がハスで埋め尽くされます。昭和57年に歴史公園として沼の復元を行ったところ、400年、地中深く眠っていたハスが自然に自生したもので、宗治蓮と呼んでいます。
地図  城の東側400mの県道(オレンジ色)から城へ入る道が広いです。1/3125縮尺にするとわかりますよ。