備 中 七 城 「 冠 山 城 」
撫川城跡の案内板
岡山県指定史跡
撫川城跡

 撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、南北七十七メートル、南北五十七メートルの長方形を示し、幅十五メートルの濠がぐるりと廻っています。西に高さ四メートル強の高石垣(野面積)と東には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しがみられます。
 この城は永禄二(1559)年に備中成羽城主三村元親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正十[1580]年)には毛利方の国境防衛の城「境日七城」の1つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配化になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
 戸川氏は安風(四代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
 なお、入り口に現存する門は、撫川地行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
 昭和三十(1957)年五月、県の史跡に指定されました。

平成九年三月
岡山市教育委員会
庭瀬城跡の案内板
庭瀬城跡(撫川城跡) 岡山市庭瀬
 
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝据城とも呼ばれた。一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後、宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を拡げ城下町をととのえた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示してい
る。
寛政5年(1793)板倉勝貴は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の
遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵)