備 中 七 城 「 冠 山 城 」
 4月25日 冠山城応戦するが火を放たれ炎上、落城す!
左 下足守国道429号線沿いより 右上 二の丸 右下 本丸の碑
 
 冠山城のデータ
城の形態 平城
城主 林重真(落城寸前に自刃・宗治の娘婿)
毛利側 竹井将監(早島城主−加藤清正に討たれる)
称屋七郎兵衛、松田盛明 他
織田側 宇喜多家臣 宇喜多忠家
秀吉家臣 加藤清正、杉原七郎左衛門
当時の様子  天正10年4月15日、宮路山城を攻撃した秀吉勢は冠山城にも兵を進めました。当初宇喜多忠家に8千の大軍で攻めさせましたが、反撃にあい撤退。今度は加藤清正に命じ、杉原七郎左衛門に城を調べさせて北側に進入しやすい塀をみつけました。4月25日、伊賀忍者を使って城内に火を放ち(城内で火災を出してしまった設もある)、北川の塀より乗り込み、一気に秀吉勢が突入。敵をバタバタと討ち取っていた毛利の早島城主竹井将監と加藤清正の対決では、なかなか勝負がつきませんでしたが、清正が槍を捨てて太刀を抜き竹井に切りつけ、竹井は倒れました。城主林重真は南大手の櫓で切腹し、家来139名が討ち死にしました。
 秀吉が宮路山を攻めたのが15日、冠山をせめたのが17日、ほぼ同じに攻めています。冠山城は火をつけるなど、力づくの攻撃で落城している事から、他の城に対するみせしめ的な要素もあったと推測できます。宮路山城は冠山城落城後1週間あまりで開城しました。
 林重真の正室は清水宗治の娘、落城後の消息は不明。真備町に代々のお墓があり、子孫の方も暮らしていらっしゃるそうなので、落城後清水家と共に真備町に移ったものと思われます。
城兵 300人
場所 岡山市下足守
現在の状況  冠山城は木や竹に覆われていますが、東側登城口からの登城道は整備されています。三の丸、二の丸の案内板、本丸には「冠山合戦戦死将兵慰霊碑」が立っています。冠山城のふもとより北側を見ると、約4キロ先に宮路山城・鍛冶屋城が見えます。
備考 冠山城の本丸にある「案内板」
地図  東側に登城口がありますが、先にはUターン場所がありません。私は近くの公民館のような所へお願いして停めさせてもらったりしています。