そ の 後 の 清 水 家 - 江戸〜明治時代
はじめに 江戸期の清水家は、毛利一門につぐ寄組士となり、重要な財政改革などの要職にもつきました。幕末には長州の正義派に属しますが、禁門の変の責任を取って切腹、「戦国の宗治」「幕末の清太郎」と二度にわたって主家を救ったといわれています。明治33年、これまでの功績より、男爵を授けられました。
目次
萩の清水、益田牛庵の改革を手伝う
光市の清水、菩提寺を建て宗治と家臣の霊をともらう
幕末 清水清太郎の切腹
幕末 第五奇兵隊の総長
萩の清水、益田牛庵の改革を手伝う
 清水景治は萩に屋敷を構え、益田牛庵の財政改革を手伝うことになります。益田牛庵(元祥)は石見の外様大名で、関ヶ原の後、その手腕をかい家康が引き抜こうとしたものの、石見を捨て毛利家に残り、輝元が永代家老とした実力者でした。牛庵と景治がどこでどう知合ったのかは不明ですが、1623年には副役となり、牛庵の厳しい毛利再建計画の右腕として働いていたようです。1632年には牛庵の後職を継ぎますが、一年後、65歳で隠居を願い出て家督も元貞に譲りました。益田家とは婚姻関係を結ぶなど、江戸期は深いつながりがあったようです。
写真 上/清水家跡の碑 下/清水家屋敷跡周辺 背後の山は萩城のある指月山 
光市の清水、菩提寺を建て、宗治と家臣の霊をともらう
 景治は、光市に2500石の知行をあてがわれ、野村村(現在の光井)に屋敷を建て、父宗治を供養するために2つの菩提寺をつくりました。現在も残る清鏡寺(せいきょうじ)には、宗治と自刃した家臣、戦いで亡くなった城兵をともらう供養搭がいまも大切に奉られています。
写真 上/清鏡寺 下左/清鏡寺の供養搭 下右/宗治所用の甲冑(光市文化センター)
幕末 清水清太郎の切腹
 江戸時代末期の1864年、長州藩は討幕派の「正義派」と幕府依りの「俗論派」に分かれ対立、幕府からは兵を向けられるという、危険な状態に陥っていました。
 「清水清太郎(親知)」は22才で藩の家老職に抜擢、正義派に属し、幕府の長州追討に武力をもって立向かう事を主張します。しかし、萩主毛利敬親は俗論派に傾いた為、清太郎は罷免、さらに奇兵隊など諸隊の解散令が発せられますが、高杉晋作らは難局を打開せんと奔走。その中、禁門の変の責任をとって、三家老の益田親施、福原元イ間、国司親相は切腹させられます。同年12月、高杉らは功山寺で決起しますが、萩で正義派の毛利登人ら数名が投獄、又は斬られ、正義派の代表として謹慎していた「清水清太郎」は萩の上屋敷で切腹させられました。
 わずか1ヶ月後、長州政府軍と騎兵隊の正義派軍が激突し、流れは正義派に移ります。藩存続の危機感などから藩内にも沈静化を求める動きが起こり、3月には正義派が主流となって事態は収拾されたのです。清水家は2度にわたって主家を救ったといわれる所以です。清水清太郎の墓は、禁門の変で切腹した方といっしょに東光寺にあります。
写真 東光寺の入り口
幕末 第五奇兵隊の総長 
 切腹した清太郎のかわりに、父親春は再び家督をつくごとに。親春は第五騎兵隊の総督として活躍しました。明治元年の藩治制改革で役職につくも同年病没。
明治になり、長年の功績から清水家は男爵の位を与えられました。
 光市には正義神社という神社があり、親春の墓があります。

写真 正義神社