清 水 宗 治 歴 史 年 表
はじめに 宗治の若かりし頃の記録は残っていません。父宗則の記録は残っており、中国地方の戦に何度も参戦しています。備中の守護といえば備中松山城主三村氏、主従関係は毛利氏→三村氏→清水氏でしたが、備中兵乱で三村氏が亡くなると、毛利氏→清水氏となります。毛利というより隆景の家臣といっても良いでしょう。その関係は宗治が亡くなった後も続きます。
天文6年 1537 1歳 清水宗則の次男として、清水村(現 総社市清水)に生まれる
幼名を才太郎。兄は宗知、後の月清入道である
弘治元年 1555 19歳 清水宗則は、元就の大内攻めに毛利の加勢として石見に出陣
厳島合戦で、毛利元就勝利!大内氏が滅亡
永禄3年 1560 毛利元就、尼子 白鹿城攻め
4年 1561 25歳 龍の口の合戦
父 宗則没す(詳細不明)
5年 1562
元就は、尼子を攻め、月山富田城を取り囲む
   7年 1564 再び 滝の口合戦
   8年 1565 清水宗治、備中高松城主になる
高松城主石川久孝が亡くなり、跡目相続に名乗りをあげた宗治は、ライバル長谷川掃部を城内で斬り城主となる
   9年 1566 30歳 尼子義久降伏し、月山富田城開城
  10年 1567 明禅寺合戦
父宗則、備中松山城主三村氏に加勢するが、宇喜多直家に大敗する  
  12年 1569
1570
尼子勝久が挙兵し、備中・美作へ侵攻する
毛利元就、郡山城で死す
元亀2年 1571 35歳 南備中、児島付近が不安定となり、児島に讃岐の三好勢が攻めてくる
尼子勢が石川久式の留守を狙って幸山城へ攻めこむ
   尼子は経山城も攻めたが、城主中島元行は一策を案じこれを防ぐ

後に清水家の後継ぎとなる才太郎(景治)が生まれる。
天正2年 1574 虎倉城の攻防
虎倉城主伊賀氏、攻めてきた毛利を追い払う →1579年へ
   3年 1575 備中兵乱
毛利へ反旗を翻した備中松山城主三村氏は、毛利に滅ばされる
常山城の戦い 三村氏に加勢した常山城落城
宗治は四国勢来襲に備えて、児島の沿岸を守る
4年 1576 40歳 足利義昭が、毛利をたより鞆の浦(広島)へと入る
   5年 1577 播州上月城の戦い
尼子の残党山中鹿助と支援する秀吉、城奪還を狙う毛利の壮絶な戦い
   6年 1578 源三郎の誘拐
 留守中、信長の策略により家臣が宗治の息子を人質に立て篭もる
秀吉は兵を引き上月城は落城、尼子勝久自刃。尼子氏滅亡
  山中鹿助、高松城付近を護送中に、宗治が接待した記録あり
宇喜多直家が、毛利から信長へ寝返る。
   7年 1579 忍山城の攻防
 宇喜多に狙われた城主伊賀久隆は、毛利に助けを求める
辛川合戦
 小早川隆景、宇喜多勢に敗れる
   8年 1580 八浜の合戦 毛利対宇喜多、宗治も参戦する
宇喜多、冠山城を攻める
9年 1581 45歳 宇喜多直家が岡山城にて病死、53歳
鳥取城の戦い
 毛利(吉川)対信長(秀吉) 吉川経家4ヶ月の篭城の後、自刃
  10年 1582 46歳 信長の命を受け、秀吉が備中へ出陣
本能寺の変
「秀吉の水攻め」に敗れ自刃
  清水宗治、城兵の命と毛利の安泰を願い、湖上で自刃する
備中高松の戦、終わる