宗治の逸話 
 はじめに 宗治の話はたくさん残ってはいません。広く名が知られるようになるのは、亡くなって後のことです。それでもいくつかの、宗治公らしい逸話が残されています。義理堅き武将宗治がどんな人であったか、きっとわかってもらえるような気がします。
 ■ 源三郎の誘拐
 天正6年、宗治は播州の上月城攻めに参加しておりました。上月城をめぐっては、信長と毛利の間で奪い合いが続いていましたが、お家復活を目指す山中鹿助率いる尼子の残党が信長の後押しをもらい、上月城に入っていました。
 ある日、留守居をしていた家臣が備中高松城から馬を走らせてやってきました。聞けば、信長と通じた家臣が、嫡子(後継ぎの男子)源三郎を誘拐しようとし、とりあえず城に追い込んで留め置いている、急ぎ城へ帰れとの知らせ。寝返った家臣の要求は、息子を返してほしくば戦から手を引けとの条件でした。
 しかし宗治は、慌てるどころか自分の持ち場から離れず、「武士の子として生まれたからにはわかっているはず、今ここをはなれるわけにはいかない。主君に後々迷惑をかけてはいけないので、もし逃げ出すようなことがあれば、その時は源三郎もろとも殺してもかまわぬ。」と家臣に命じます。そして主君毛利には知らせませんでした。
 その話を伝え聞いた小早川隆景は、宗治を呼び「心配であろう。急ぎ城へ戻って連れ戻すがよい。」と宗治の帰還を許しました。宗治は馬に飛び乗り備中へ、罪には問わぬ事を条件に無事息子を取り戻すのです。そしてまた上月城へ向かい、自分の持ち場についたと伝えられています。 
 ■ 三行の遺言 「身持ちの事」
 天正10年6月4日、清水宗治は自刃(切腹)しました。享年46歳。義理堅く勇敢であった事から、本当に惜しまれた武将でした。宗治の息子、源三郎は小早川隆景の三原城へ人質にだされておりました。人質というのは、同盟者が裏切らないために主君に大切な家族を預けるのです。
 自刃の前日、宗治は源三郎に「身持ちの事」という書状を残しました。今でいう遺言書です。この書状を源三郎、後の景治(かげはる)は肌身はなさず持ち、萩の屋敷でなくなったときもお守り袋の中から出てきたという話が残っています。
 
   身持ちの事
   恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ
   朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ
   談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな
       六月三日                清鏡宗心
 
 切腹の前日に、秀吉に恨み一つ、悔しい思い一つしたためるでもなく、別れをおしむわけでもなく、10才前後の息子に残した三行の遺言。ユーモア、短文、センスのよさ、宗治らしい親としての暖かさが感じられる遺言のように感じます。
現在、山口県光市文化センターにて保管されています。